“生命”とは何か?
- 水野 辰哉
- 2024年9月16日
- 読了時間: 5分
私はカバラ(ユダヤ神秘思想)について大沼忠弘先生から学びました。1998年当時、池袋の朝日カルチャーセンターで行われていた大沼先生によるダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』についての講座を受講したのが最初です。
“カバラ”とはユダヤ神秘思想のことで“伝承”を意味します。大沼先生はカバラについて「ヘブライ語でユダヤ教の密教的部分,口から耳に直接伝授された,師資相承の〈口伝〉もしくは〈伝統〉を意味する語で,Kabbala,Cabalaなどとも表記される。」とされています(出所:コトバンク)。
生命の木について松田アフラ氏は「ユダヤ神秘主義カバラにおいては、不可知の超越神と創造された顕現世界との間にひとつの神秘的な関係が措定されていた。カバラの徒によれば、世界の創造とは神の内的世界が外的な現象形態として顕現することに他ならない。そして彼らは、この『創造=神の顕現』のイメージを逆さ吊りにされた樹の形で図示化した。これがカバラの根本図像としての〈生命の樹〉である。カバラの〈生命の樹〉は一般に「セフィラ(複数形はセフィロト)」と呼ばれる10個の球体と、それを繋ぐ22本の経路(パス)で表される。各セフィラは左から順に「慈悲の柱」「均衡の柱」「峻厳の柱」と呼ばれる3本の「柱」の上に配置される形を採るが、このセフィラこそが各段階における神の「流出」である。」(出所:webムー「生命の樹」の基礎知識/松田アフラ)と述べています。
つまり、世界の創造は未顕現の世界から顕現世界への(神の)“流出”だと考えられます。“生命の木”において、顕現世界の上には3つの未顕現の世界があります。アイン=無、アイン・ソフ=無限、およびアイン・ソフ・アウラ=無限の光です。未顕現世界からの(神の)流出が顕現世界に出現し、その過程は10個の球(“セフィラ”)と22本の小径(“パス”)から成り立っています。これが“生命の木”です。
大沼先生は『神秘のカバラー』についての話の中で、「生命というのは上に向かって伸びていく力だ」とおっしゃっいました。植物が太陽の方向へ、上に向かって成長していく姿を想像すればいいと思います。
一方、高橋巌先生は、生命についてよく“オートポイエーシス”ということを言っていました。オートポイエーシスとは、“自己創出性”のことです。生命とは他からの働きかけがなくても、自らの内発的な力によって自らを創造していくことができる存在です。あるいは、他からの働きかけがなくても自ら変化を作り出していく存在、それが生命の特徴だということです。
生命の木の最初のセフィラーは“ケテル”(王冠)です。未顕現世界で、アイン(無)がアイン・ソフ(無限)になり、さらにアイン・ソフ・アウラ(無限の光)になり、さらに顕現世界に降りて来ると、最初のセフィラであるケテル(王冠)が出現します。未顕現の世界で働いている原理と、顕現世界で働いている原理は同じで“流出”ということです。
“変化の原理が同じ”ということはどう考えたらいいでしょうか。“気温の低下”による水の状態変化ということで考えてみるとよいと思います。H2O=水という物質が、液体の状態にあったとして、それに対して気温の低下という状態変化が起こったとします。気温が20度から10度に低下しても、水は液体のままですが、気温が10度から0度以下になると、その瞬間に水は液体から氷という固体に状態が変化します。あるいは100度以上の気温で水が水蒸気という気体の状態だったものが、気温が100度以下になると液体の水に変わります。水の状態が、水蒸気(気体)⇒水(液体)⇒氷(固体)と変化しますが、それは“気温の低下”という共通の原理によって引き起こされるのです。
つまり、“流出”という同じ原理による状態の変化によって、未顕現世界においてはアイン⇒アイン・ソフ⇒アイン・ソフ・アウラと変化し、さらに非顕現世界⇒顕現世界となって、“生命の木”が出現し、そこにおいて各セフィラーがケテル⇒コクマー⇒ビナー・・・と変化していくのです。ここで働いている共通の原理、先ほどの例で言うと「気温の低下」にあたるもの、それが生命の木の中でセフィロートを下に向かって変化させていく原理であり、“流出”と呼ばれています(“下降”や“濃縮”といった呼び方で表現されることもあります)。
生命の木の一番下、10番目のセフィラーはマルクトですが、これは肉体あるいは物質世界を表します。ケテルからの流出、下降、濃縮によって最終的に物質世界に到達するのです。
先ほど生命とは上向きの力だと言いましたが、流出によって下に降りてきた力は、どうやったら上向きの力に方向を変化させることができるでしょうか。私はそこに作用と反作用の関係が働いているのではないかと考えています。ある下向きの力が地面にぶつかって抵抗を受けるとそこに反対方向の力、抗力が生じます。それが作用と反作用の関係です。私は、生命力という上向きの力は、重力という下向きの力が地面にぶつかり、その抗力として生ずる力なのではないか、と考えています。
このことは光と色との関係に例えることができると思います。光が宇宙空間の中を進んで行くとき、我々は光自体を見ることはできません。宇宙に何も障害物がなく、ただ光が直進していくだけだとそこはただの暗闇の世界です。光が色として出現するためには、そこに何か抵抗が必要です。光が何かにぶつかって反射する、つまり抵抗を受けることによって色が現れるのです。
ダイアン・フォーチュンは、『神秘のカバラー』の中で、もし「私が『神とは何か?』と問われればそれに対して、一言で答えることができる。『神とは圧力である。』」と述べています(“If you want to know what God is, I can tell you in one word: God is pressure.”)。つまり、神とは、上から下に向かって降りてくる圧力なのではないかと思います。この圧力により、生命の木における下降、流出、濃縮が起こるのではないでしょうか。
ケテルから下降してきて、10番目のマルクト(王国)において生命の木は物質世界に到達します。上から下に向かう神の圧力、これは生きている人間にとっては重力として感じられものでしょう。人は生きている間中、常に下に向かって重力により引かれています。
生命の木を人間の肉体に当てはめると、マルクトは足の部分に当たります。人間は重力により下に引っ張られていますが、足が大地についているので、そこで体が支えられています。この足が地面を押す下向きの力に対して、地面からはこれとは反対方向、つまり上向きの抗力が発生します。これが生きる力、すなわち生命力なのではないでしょうか。
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