
人智学について
人智学とは何か?というのは難しい問ですが、「自分はどう生きるべきか?」という問いに対する答えのヒントを与えてくれるものだと思っています。
「人生、どう生きるべきか?」については、答えが決まっているのではなく、その時、その場の“状況”によって変わって来るのではないでしょうか。その時、その状況にいるのは、私であり、そこで直ちに答えを出さなくてはいけない。
その場の“状況”に対して次々に答えを見つけ出して、対応し続けていくことの連続が人生だと思います。そこでどういう答えをみつけ出すかは、自分が持っているtasteのようなもので決まってくるのではないでしょうか。
”taste”という英単語は趣味という風にも訳されますが、そこに自分の個性が反映されるものだと思います。では自分の個性とは何か、ということですが、それはすごく複雑なものだと思います。
私たちの魂は思考、感情、意志(+自我)でなりたっていますが、それぞれに特徴があります。思考で言えば、私は自分では比較的ものごとを緻密に考えるタイプだと思っています。データを積み上げて分類し、何らかの体系を組み立てる、といったことが好きなタイプだと思っています。
それに対して、ものごとをパッと判断してすぐに結論を出してしまうタイプの人もいます。感情、意志にもそれぞれの人のタイプ、スタイルがあります。深い情念にとらわれている人もいるし、一つことにこだわらずどんどん気持ちを切り替えていける人もいます。私は自分では後者の方ではないかと思っていますが。
そして、思考、感情、意志には相互の関係もあります。感情や意志に対して思考が優勢なタイプの人もいるでしょうし、感情が優勢な人、意志が優勢な人もいます。私はどちらかと言うと、思考が優勢なタイプではないかと自分では思っています。
こうした私の魂に加えて、私にはさらに肉体、エーテル体、アストラル体からなる体があり、さらには霊の部分もあると思います(これらに関しては、人智学のページで詳しく論じていくつもりです)。
これらがまた相互に浸透し合い、影響しあっています。肉体がアストラル体に影響したり、エーテル体が肉体に働きかけたりと相互に複雑な関係にあると思います。さらには、霊の働きもあると考えられますが、これは今の私にはまだよく見えていない部分です。無意識とか潜在意識と言ってもいいのではないかと思いますが、私の顕在意識に対して、膨大な無意識の領域があり、これが顕在意識との間で相互に影響を及ぼし合っていると思います。
霊、魂、体さらには私の自我によって私という存在があるのだと思いますが、それらは相互に影響し合っているだけでなく、それぞれ外界とも関わっています。家族や友人、会社の同僚や上司、さらには社会とのつながりがあります。
外界との関わりはそれだけにとどまりません。例えば、家族といっても今生きている家族だけではありません。亡くなった祖父母や他の親せきも私に影響しているでしょうし、さらに広く、地域や民族といったことも、さらには日本の文化や伝統も私の魂に影響しているでしょう。生まれた地域の特性、例えば、県民性といった形で特徴が魂の中に埋め込まれているのではないでしょうか。
これらが現在の私を形成している訳ですが、輪廻転生ということを考えると、影響するものはさらに広がります。前世の私、さらにその前の私のカルマがきっと現在の私に影響しているのでしょう。
それらがどういうものなのか想像もできませんが、現在の私というものを形作っているものは、過去から現在までの途方もなく多くの要素が相互に影響し合ってできているということでしょう。
それにさらには未来からの流れも加わるかもしれません。私にとって生きる目的、あるいは使命のようなものがあるとしたら、それらは未来から現在の私に向かって流れて来るものであり、それも現在の私に影響しているでしょう。
いずれにせよ、現在の私というのは、私の内と外、過去と現在と未来からのさまざまな糸が複雑に絡み合ってできているのだと思います。私が現在置かれている“状況”に対して何か答えを出す、その答えに私の”taste”が反映されるのだと思いますが、それは途方もなく多くのものが流れ込み凝縮されてできあがったtasteなのだと思います。
“自分を知る”というのは、たくさんの自分に絡みついている糸を一つ一つひも解いていく作業なのではないでしょうか。そうやって紐解かれた私のtaste、それが私の個性であり、私だけのものです。
私が置かれている状況、それに答えを出せるのは、そういうtasteを荷った私だけです。自分のtasteを卑下する必要はないし、かといってそれが人より優れている訳でもありません。各人が、膨大な糸が絡み合ってできている複雑な人間であることを理解すれば、自分のtasteも尊重してほしいと思うし、同時に、他の人のtasteも尊重しなくてはいけないと思います。
自分のことをもっとよく知り、同時に他者をもっと思いやることができれば私たちの生き方は変わっていくでしょうし、世の中も少しづつ良い方向に変化して行くのではないでしょうか。私としては、人智学の役割はそこにあると考えています。

ルドルフ・シュタイナー、高橋巌先生と人智学、神智学について
人智学を創設したルドルフ・シュタイナー(1841-1925年)について、『戦略としての人智学』の註に
「ゲーテの自然科学論や文芸雑誌の編集に携わりながら、アナーキズム的姿勢を貫く。1900年頃からドイツ神智学協会に所属し、薔薇十字主義、フリーメイソン的伝統と東洋的神智学を結びつけながら、人智学を確立する。ドイツ観念論哲学の流れをカント、フィヒテから、ブレンターノに至るまで、文献学的に研究し、哲学を神秘学的領域に結びつけながら、その理念を身体的、感覚的、体験的領域にまで拡大し、同時にマニ教、グノーシス主義、エジプト神話、ギリシャ神話、ディオニシウス・アレオパギタの『天使論』等を哲学的地平において、新たに意味づけるという作業を行う」と書かれており、彼の思想はこれらの広大なバックボーンから成り立っていることが分かります。
それらを通してシュタイナーは「哲学的思考と霊学的思考を、ロゴスとソフィアを、理性と感性を、霊学と自然科学を対立するものではなく、互いに宇宙論的視点において両立」させています。
人智学とその前身となった“神智学”の決定的な相違は「宇宙の流出吸収の運動の中で果たす、人間存在の捉え方にあるといえる。人間の自我が宇宙の進化に関わることによってのみ、二元論的に出現する悪の根拠付けがなされる。人間は創造されたものであるという意味において、人間は宇宙の流出過程における受動性の所産であるが、その創造された人体は、そこからすべてのものを生み出す創造力を有しているという意味においては、自らを能動的存在に変えることができる。宇宙が流出している過程においては、人間は宇宙の必然の中に組み込まれているが、吸収過程において、人間は宇宙の中に『自由な意志』を生み出すことができる」と記されています(『戦略としての人智学』(高橋巌 笠井叡 対話 現代思潮新社 175~176ページ“註”)。
対談の中で、笠井さんが現代という時代について「全人類的・全歴史的な大きな転換期のような気がします」とおっしゃったのに対し、高橋先生が「ええ、本当にそう思います。かつての封建時代から資本主義社会への移行に匹敵するくらいの決定的な変化が今始まりつつあって、その流れの方向が今やっと見えつつあるような感じがします。つまりシュタイナーの言う『技術と産業と営利主義の支配』に危機感を持って、新しい価値観を模索しているところだと思います」と述べると、笠井さんは「人間の最も深いところを変えていかなければならない時代だと思います」と答えています(同書10~11ページ)。
これに関連して“個体主義”という言葉が出てきますが、これについては「個に徹して自分の内部に新しいものを見つけ出す」とか「イデオロギーではなくて、決定的な意識の変革が重要になってくる気がします。その変革もマスではなく、ひとりひとりの個人の中における意識の在りようというものが、もう一度完全に根底から見直されていった時に、何かがでてくるという感じある」と述べられています(同書12~13ページ)。
さらに“ヨアキム主義”という言葉が出てきますがこれについて高橋先生は「私の感じでは『ヨアキム主義を生きる』ということは、自分の中に神を見つけるということだと思います。しかし自分の中の神に出会える道が、自然科学的な考え方や合理主義的な考え方では全くありえないので、一言で言うと『能動的な態度をどこまでとれるか?』ということに尽きるような気がするのです」とおっしゃっています。
高橋先生は自然科学的な発想について「ある現実が外にあって、その外にある現実に自分自身の精神を適応させることで認識が開けてくる、と考えます。だからいつでもその場合の個体は、外から来る刺激に対して受身で、それをどこまで客観的に受け取れるか、という作業になります。その認識作業の中で、ある自然科学的・客観的な真実と自分が出会っていると思えれば、安心感が持てます。・・・・・そういう受身の態度で生き甲斐が見出せるのかという根本的な疑問が出て来ているようです」とおっしゃっています(同書14ページ)。