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​『マクロコスモスとミクロコスモス』について

​ 『マクロコスモスとミクロコスモス』については、『シュタイナーコレクション3 照応する宇宙』(高橋巌訳 筑摩書房)に所収されている『マクロコスモスとミクロコスモス』をテキストにして、横浜の朝日カルチャーセンターで高橋巌先生が講義されたのを、私はzoomでお聞きしました。今、高橋巌先生が最後の数年間に講義されたときのメモを整理していますが、『マクロコスモスとミクロコスモの』の講義に関しては、一番最初の講義メモの日付が2021年10月8日となっているので、おそらくこの時から講義がスタートしたと思います。


 高橋先生は2024年の3月30日にお亡くなりになったのですが、その前日の3月29日にもこの横浜の講義は行われていて、先生は相当体調がお悪いにも関わらず横浜まで出向いて講義をなさいました。話すのがやっとの状態で、30分くらいしかお話しは聞けませんでしたが、今から思い返してみても、最後のしめくくりとなる充実した素晴らしい最終講義でした。


 先生はテキストをある程度読み進められると、また前に戻ってそこを読むということを繰り返されていたので、月2回の講義を3年近く続けてもまだテキストの最後までは進めませんでした。先生が何度も同じところを繰り返されたのはそれだけこのテキストが重要な内容を含んでいたからだと思います。


 このテキストの内容は非常に奥が深く、驚くようなことが記述されています。先生の講義メモを読み返すとともに、原文を少しづつ読み進めて行って、その全貌をじっくり味わってみたいと考えています。原文を読んで重要だと思う部分を訳出するとともに、私の感想等も付け加えながら、このセクションを進めていきたいと思っています。


 2024年10月6日日曜日の日経新聞朝刊の文化欄に西崎憲という翻訳家の方が『大学へいく』というタイトルでエッセーを書いていらっしゃいます。西崎さんはその中で「現在の生活はよくいって意図せざる清貧といったものである。しかし自分でも驚くほど満足度は高く、わたしはいまの生活をどんな恵まれた人間のそれとも交換するつもりはない。翻訳というのはいわば最大限に時間をかけた読書で、それに堂々と没頭できるわたしは、つまりは本の富豪なのだ。これ以上どんな富が必要だろうか。」とおっしゃっています。


 辞書と首っ引きでドイツ語を読んで行くのは大変ですが、シュタイナーを原文で読むことの意義はここにあると思います。まさに「翻訳というは最大限に時間をかけた読書」であり、翻訳のプロセスを通して私はシュタイナーが言わんとすることの意味を自分なりにとことん考えさせられます。分からなくて難渋することもしばしばですが、原文について一生懸命考え続けることで、より深くシュタイナーの意図に寄り添うことができる気がしています。


 横浜の朝日カルチャースクールでこの講義をスタートさせるにあたり、高橋先生は講義の紹介パンフレットに次のように書かれています。


「今回のテキストはシュタイナーの主著『神秘学概論』が出版された1910年の春、ウィーンで行われた11回の連続講義で、人間(小宇宙)から大宇宙への道を見つけることを課題にしています。その道は知性ではなく感情による道、「ハートの思考」への道です。シュタイナーは更に、その道を辿ることで自己認識を深めていくと、外と内が相互に浸透し合い、更に時間(歴史)が空間(現在)に変わる、と述べ、その道筋をくわしく語ってくれています。(講師・記)」と書かれています。
 

 私たちひとりひとりはその内面に小宇宙(ミクロコスモス)を持っており、それは大宇宙(マクロコスモス)と照応しています。マクロコスモスとミクロコスモスとはお互いに影響を及ぼし合っているのです。その関係がどのようなものなのか、これはアストロロジーの根幹的な問題でもあるので、じっくりと探求していきたいテーマです。


 この講義も含め、私が高橋先生からお聞きしてきた講義のことを思い出すと、あらためて、それがいかに貴重な時間だったかということをしみじみと感じます。しかしながら、実際に講義をそれを受けている時には、もちろん有意義なものと感じてはいましたが、どこか日常的なものになってしまっていて、その有難みを十分には感じてはいなかったと思います。高橋先生からだけでなく、例えば、親から受けた恩といったことも過ぎ去った後に思い返してみて、あらためてしみじみとその有難みを感じるといったことでしょうか。

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